「お前、これからどうするんだ」 「明日には出ていくつもりだ」 「どこへ?」 「さぁ……心の赴くままに、かな」 肩をすくめて言うフランシスが、急に遠くにいるように感じた。フランシスのまとう時間のベールが、フィリップとの世界を分断した。フィリップの時間は動き始めた。 まだ同じ空間を共有していたかった。まだ話せることがたくさんある。彼の空間でなら話せる。 しかし、彼の住む世界は、こことは完全に切り離されている。 「フランシス」 「何?」 いつのまにか、頭の奥底で潜在的に考え始めていたらしいことをフィリップは口にした。 「……私も連れて行けよ」 さすがのフランシスも、この発言には目を丸くした。気がふれたとしか思えない。苦笑いして相手をたしなめようとすれば、フィリップは懇願するような、けれど強気な視線をフランシスから離さなかった。 「連れて行けったって……」 「私もヴァンパイアになれば、問題ないじゃないか」 「いや、いやいや……」 たとえ政に一切参加していないにしても仮にも王弟殿下だ。問題がないわけはない。 「このままここにいたって、私は処罰を受けて、その後は今までどおりの生活。一生日の目を見ることもない。せめてここを出たい」 「そんな簡単に言うけどな……」 フィリップとしてはなんらおかしいことを言っているつもりはなかった。自分が消えて、悲しむものがどこにいる?妻のアンリエットなど、自分がいなくなったことにすら気付かないだろう。悲しむ…悲しむといえば、賭博仲間達なら、いい金の出がなくなったと嘆くかもしれない。王弟とういう肩書きを持つフィリップがいなくなれば、自分の弟という面目上仕方なく賭博行為に目をつぶってきた王がそれら規制する可能性だってある。それでもここから出ればそんなことはフィリップの意に介することではなかった。 「フィリップ殿下、ヴァンパイアになるということは、永遠に死なないんだ」 「結構じゃないか」 「貴方には耐えられまい」 「ここにいるほうが耐えられないんだ!」 声を荒げるフィリップの目にはいつのまにか涙で薄い膜ができていた。瞬きをすればそれは水滴となって零れ落ちそうだった。それでもまだフィリップの目はフランシスに挑み続けていた。 「うーん…参ったな」 怒ったかと思えば静かになったり、妙に素直だと思ったら今度は泣き出したり。本当に感情表現が豊かな人だ、と苦笑し、フランシスはフィリップに向き直った。しばし、二人は見つめ合う。 「……私と共に行くか」 フランシスの言葉にフィリップは眉を上げて、一瞬自分の行く末を考えた。どうなるかはわからない。だがここに残れば自分の望まぬ運命が待っているだけだということは知っていた。 「あぁ、行く」 「……そうか」 低い声でうなずくと、フランシスはフィリップの頬に手を添える。冷たい指先の感触に、フィリップの頬が強張った。だが後に引き返す気はない。 「……どうするんだ」 「ちょっとした儀式さ」 意を決してフィリップは目をつぶった。数秒後、予想だにしない感触に思わず目を見開いて、相手の肩に手を突っ張り、押しのけた。 「待て。この接吻も儀式のうちか」 「……いいや」 微かに口の端を上げ、楽しそうにフランシスが言う。しばしの沈黙が二人の間に降りた。 「嫌ならやめるが」 「……別に」 どうでもいいふうを装って答えれば、再び唇をふさがれる。口内に侵入してくる舌を緩やかに受け止めれば、肩を押されそのままベッドに押し倒された。居心地の悪い体勢のまま、与えられる柔らかい感触を甘受し、こちらからも舌を絡めれば喉の奥まで犯すように深く口付けられる。息が苦しくなってきたところでようやく唇が離れれば、互いの呼吸は荒い。 「……フランシス、お前、そういう趣味か?」 フィリップとしては男性との行為は珍しいことではなかったが、その気のない相手ならば気が乗らない。それにフランシスのことだから、フィリップの趣味思考を配慮しての行為かもしれないと勘繰った。 「想像もつかぬほど長い年月を生きて、尚固定観念に縛り付けられているのはもったいないことだと思わないか」 一呼吸置いてフランシスが言う。 「……それに、貴方が可愛いから」 そう言って相手の頬を撫でれば、フィリップは照れるような、腑に落ちないような、なんともいえない表情を見せる。 「ふ…ん。そんなことは言われたことがないし、別に言われたくもないな」 「貴方ほど素直に自分の感情を表現できる大人はなかなかいない」 褒められているのか貶されているのか判別しがたく、フィリップは怪訝な顔をした。そんなフィリップにふっと微笑むと、フランシスはフィリップの上着に手をかけた。 この行為が終わるころには自分は彼と同じ種族になっているのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、相手の首にゆるく腕を回し、フランシスの為すがままに身をゆだねた。 どれくらい時間がたったのだろうか。目を開ければそこは先ほどと同じ風景で、自分の部屋のアンティーク調の家具やテーブルが横向きに見えた。 どうやら寝てしまったらしかった。窓の外から見える空は、夜明けに近い。暗い空に瞬いていた星は太陽に侵食され今やぼんやりと弱々しい光を放っていた。 はっきりしない頭のまま、首筋を何気なく撫でるが、特に変わったところは感じない。目をこすり、体を起こせば、隣に居るはずの男が居なかった。部屋をぐるりと見渡せば、開け放たれた窓で小さく揺れるカーテンが目に付いた。それ以外に動くものは見当たらない。フィリップの心臓は大きく脈打った。まさか。 「……おい」 どこにいるかわからない彼に小さく声をかけたが、返事はない。 「フランシス!!」 堪らず大声を出した。 まさか。 上着を適当に引っ掛けベッドから飛び起きた。部屋には彼の影形もない。 もしかしたら自分が寝てしまったから、また王宮をうろついて暇つぶししているとか。兄に出発の旨を伝えているとか。可能性は、ある。早鐘を打つ自分の心臓を落ち着けようと大きく息をし、何か飲もうとテーブルに向かう。 細かい虹色の細工が施された透明の水差しに手を伸ばせば、一輪の花が置かれているのに気がついた。真っ赤な薔薇。 それが何を意味しているか、考えるまでもなくわかった。謝罪のつもりか、慰めのつもりか、はたまた自分がここにいたという証を残したかったのか。あるいはその全て。それはサインに違いなかった。確実にいえることは、フランシスはフィリップを連れ去らなかったということ。 しばしその薔薇をフィリップは見つめていた。何かを期待するようにじっと見つめていたが、それはやはりただの薔薇だった。 数刻前、目覚めてから、頭の片隅で徐々に形を成していた空虚感が胸のうちを満たしていった。 上手く頭が働かず、自分はこれからどうなるのか、どうするのかが理解できなかった。フランシスが出て行ったことを認め、彼と会う前の状態に戻るだけだ、ということにどうしても実感が沸かなかった。 昼間は太陽の明るい光が差し込み様々な装飾が煌めく優雅な部屋は、今は薄暗く静寂そのもので、酷く無機質だった。物音ひとつたてない部屋はフィリップの心の穴を広げた。生まれた思考はその穴からすぐに出ていき、推敲する間もない。何も考えられない。 微かな期待を込めて、再び確認するように首筋に手を当てるが、滑らかな肌は血の暖かさを持っていた。 次第に空虚感は怒りに変わっていった。フランシスが残していった赤い薔薇を握りつぶしてやろうと思った。だが震える手が花に触れる寸でのところでやめた。薔薇が朽ちれば彼がいた事実もなくなるような気がした。それはフランシス自身であるとともに、彼を通して見た希望でもあった。 緩く頭を振り、顔を歪める。代わりにテーブルを勢いよく蹴りあげた。繊細な丸テーブルはフィリップが予想していたよりも質量があり、倒れると共に重たいにぶい音がした。華奢な水差しが転がり水が散らばる。その上に薔薇が落ちた。 奇妙な組み合わせが不自然に並べられる。思う通りにはいかないものだ、と嘲笑われているような気がして、余計に頭がカッとなった。不安定に転がったテーブルをまだ足りないと言うように蹴り飛ばせば、自分の足にも痛みが走る。 そのまま柔らかい絨毯に座り込み膝を抱えこんだ。涙が止まらなかった。痛みがようやく彼に現実を認識させた。 自分はここから出られないし、フランシスは消えた。もう会うこともない。自分の話を聞いてくれる人もいない。自分を見てくれる人もいない。 朝日が見える頃になり、その部屋がいつもの様子を徐々に取り戻しても、フィリップはそこで泣き続けた。 それから日が経った。 宮廷内を騒がしたヴァンパイアの話など、今ではちょっとした冗談に交えられる程度で、特別人々の興味を引く話題ではなくなっていた。 恐れていた処罰はなかった。ヴァンパイア事件の影に隠れたのか、それとも兄が憐憫の意味で取り計らったか、そもそもフィリップがしでかそうとしたことに誰も重きをおかなかったのか。 ともかく、彼の周りはすっかり前と同じに戻っていた。変わったことと言えば、国王はバレエにそれほど熱を注がなくなったようだった。今度はベルサイユに建てる宮殿のことで頭が一杯らしい。 フィリップは今まで通り、賭博仲間の誘いを受け、朝まで賭け事をしていたので、誰も彼の内奥の変化には気付かなかった。 フィリップは待っていた。窓は開け放しにしていた。というのも、薔薇は今でも瑞々しい赤を称え生きていた。それ自体は、フランシスがヴァンパイアということを考えれば、非現実的なことが起ころうと疑問を持つこと自体無駄だった。だが、なぜ、フランシスがそのような薔薇を置いていったのかがわからなかった。ただの気まぐれで?または、自分を忘れられたくなかったから?それとも――いずれ迎えに来るという約束? 考えても本人に聞かないことにはわからなかった。だからフィリップは待つしかなかった。 賭博はやめなかったが、他の男と交わることは辞めた。彼への裏切りになるなどとは考えなかったし、そもそもそんな深い関係になったわけではない。ただ単に、誰かとそのような行為をする気分にはなれなかった。しかし、彼は戻ってこなかった。 風を受けて立つ波の音はある種の不規則性を伴って、規則正しくフィリップの耳を突いた。小さく持ち上がり、沈み込む波の行方を見ていたが、それはすぐに白い泡となって消えた。雨上がりの太陽を後ろに隠した重たい雲は、空と海との境界をぼやけさせていた。ただ、体にまとわりつく潮風には慣れなかった。 物事は思ったとおりになる、と実感していた。幸い、あまり行動を気にかけられてなく、監視の目もないおかげで、賭博仲間の協力を得て、少し身なりなどを工夫すれば、宮廷から抜け出すことが可能だった。もちろん悠長にここにいたらさすがにばれる。ともかく一人でここまで来れたことで彼は満足だったので、長居するつもりも無かった。 人気のない海岸は時の流れがゆっくりで、切り離された空間だった。 この空気を存分に味わったら、帰ろう。目を細めて沖のほうを眺め、思い切り伸びをする。 雲の隙間から差し込む光を溶かした海に、静かな時が流れていた。